昭和49年03月24日 朝の御理解
御理解 第42節
「これ程信心するのに、どうしてこう言う事が出来るであろうかと思えば、信心はもう止まっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心して行けば、そこからおかげが受けられる」。
「そこからのおかげ」此ん処所を一つ判らにゃいかん。「そこからのおかげ」、例えば病気をすると致しましょうか。信心しておってどうしてこげな病気をするじゃろうかと思うたらもう信心は止まっておるのだ。これはまあだ信心が足りんのだと思うて、一心に信心させて頂けば、そこからおかげが受けられると言うのはね、今日は、此処ん所をすっきりと頂いて頂きたいと思うのですけれども、なら病気をする。そしていよいよ重体、そして亡くなったと致しましょうか。
どうしてこういう病気をするじゃろうかと言う様な思い方ではなくてもです、これはまあだ信心が足りぬからと一心に信心をして行けばおかげが受けられると言うのは、その病気が治ると云う事じゃないんです。私どもはそこの辺の所をすっきりとしときませんとね、もう一事が万事に、何かいわゆる「すんなり」とか最近言われますね。すっきりとしたおかげになりません。どうも私共はそこら辺の所におかげと云うか、ご利益の未練と言った様な物がある様ですね。
成程病気をする。そこでこれ程信心するのにどうしてこんな病気をするじゃろうかと言うたら、もう愈々是はやっぱり一番程度が低い訳です。けれども是はまあだ信心が足りぬのだと思うて一心と信心してゆけば、そこからおかげが受けられると言うのはね、その病気が治ると言う意味じゃないんです。その病気が段々重うなって、そして最後には死んだと云う事になりましてもじゃなくて、そうなってですね、その後がそこからなんです。例えばなら少し事情を変えて、なら泥棒に盗られたと致しましょうか。
泥棒が入ったと致しましょうか、沢山お金やら着物を盗られたと致しましょうか。ああ是はお気付を頂いた。神様の言わば信心が足りぬからこう言う事が起こったんだと、一心に信心をしよったら、盗られた着物やらお金が全部返って来ました。そう言う事じゃないのです、そう云うおかげじゃ。だからそう云う様な所に安易なです、はあここを信心が足りぬからだと言うて一心に信心して行けば、盗られとるばってんまた返って来るかもしれん、と言った様な安易なおかげを感じては駄目です。
どこまでもです、盗られた。これはまだ信心が足りぬのだと、信心をさして頂きよりましたら、思いもかけぬ、例えば、盗られたぐらいの事じゃない、ものを頂いたという、そこからのおかげは、そういうおかげなんです。死んでからもそこなんです。これ程信心するのに死んでしもうたなんて言ったって、例えばなら次の四十三節を頂きましてもね、「死んだからと言うて、神のおかげを受けずに、はおられまいが」と「死に際にもお願いをせよ」とおっしゃる。
死ぬもうその際までお願いを、どうぞ治ります様にという、例えばお願いもそりゃあ致します。けれども本当はもうここでお国替えのおかげを頂く、死んでも死んだ先の事を願うのです。だから死んでもすっきりしてるでしょうが。死んだ先とてもです、神様のお世話にならん訳にはいかん。おかげを受けん訳にはいかんのだと云う事です。おかげを受けずにはおられんのだという、そこん所がすっきり判ったらです、その辺の所が私は判らして頂いたら、信心がすっきりして来ると思うですね。
それはね例えば泥棒に盗られた。ああお取り払いを頂いて、めぐりのお取り払いと思いますとおかげを頂いたと、泥棒に盗られたと言うて、ならお礼のお届けにでも来る。そういう信心が出来ておる有難い。そしたら思いもかけない所から、盗られたものが全部返って来ましたからねというそれもおかげですよ。今日は私だけれども、そこん所のおかげに、もたもたしとると信心がすっきりしない。本当に死ぬか生きるか、もう医者は難しいと言う様な病気をしました。
これはまだ信心が足りんと思うて一心に信心をさせて頂いておりましたら、不思議なおかげを頂いて全快のおかげを頂きました。成程それもおかげです。けれどもそう言うおかげにね、言うならば迷わされておると、そう言うおかげに迷わされておると、死んだ時には、本当にこんなに信心するのに、になってしまうんです。是はもう絶対に、是だけは絶対と言う事はね、そこん所のその時点を有難く受けて行く信心をさして頂いたら、そこからのおかげは偉大です。是はもう間違いない事です。
それは言わば死ぬると言う事は、取り返しの付かない事です。もう盗られたと云うものはまた返って来ないのですから、取り返しが付かないことです。けれどもねその時点でその事をです、それこそ死んだからと言うて、おかげを受けん訳には行くまいがという信心。盗られたからと言うて、言うなら、全部何もかにも盗られたと言うてもです、神様のおかげを頂かなければ、実を言うたら立ち行かんのだから、そのことがすっきりと判らして頂いたところからです。
言うならば盗られたのが返って来るのじゃない、盗られたぐらいな事じゃない程しのおかげが頂ける事は、是は私の二十数年の体験からはっきり言えれる事です。私はもう信心は一つすっきり頂きたいと思うのですね。信心しよるけん雨が降らん。信心しよるから風は吹かんと云う事はない。雨が降っても風が吹いてもです、降っても濡んで済むおかげ。風が吹いてきても折れんで済む信心。私はそこん所を四十二節は、今日は、私はそこん所を強調して皆さんに聞いて頂いた。
是は私共の場合でも、次々と不幸な事が起きて来る。言うなら、「あれ程大坪さんの所は信心して御座るばってん、どうしてあげんふが悪かじゃろうか」という時代があった。もうそりゃ本当に「あれだけ信心しよんなさって、どうして」と言う、それこそ目も当てられんようなおかげで、信心、難儀な問題が起きてきたですね。けれども私は自分で今から考えてみますとです、その、どうしてそう言ういう、例えば弟の戦死でもそうです。皆どんどんもう凱旋、凱旋じゃない引上げて帰って来る訳です。
それでまあ今度の船だろうか、今度の船だろうかと思うて、あの時分、新聞にずっと出てますからね、新聞を見てそれが楽しみで見よった所へやって来たのは広報だった。しかも話を聞かして頂きますと、八月十五日が終戦だと言うのに、七月三十日に戦死しとります。もうあと十五日生きとれば、もう終戦で無事に帰って来れたのに、神様はまあ十五日ぐらいどうかなりませんでしたかとまあ言たい所です。
けれどもその事は悲しい事でありますけれどもです、是はまあだ私共の信心が足りぬからと私はそりゃ経済の上でも大変難儀を、其の時分しておりましたけれども、弟の戦死を聞いたその翌月から、御本部へ月参りを始めております私は、違うでしょうが。しかも是だけはもう一徹です。もうお参りをすると言うたらもし旅費がない時は歩いてでも参るという腹なんです。最近あのう念力と云う事をあのう新聞・テレビで言いますね。この例えば福岡の初代の吉木先生なんかは、御祈念力と念力が非常に強いお方だった。
それにはその金光様の御信心を頂かれる前に、それこそ日本全国を行脚されてお大師様の信心をしておられるです。そういう厳しい修行をされておられるです。だから念力はその時分に鍛えられなさったんだと私は思うです。祈念力にかけては吉木栄蔵の右に出る者はおるまいと二代金光様が仰ったくらいです。そりゃ一生懸命の念力を以てされると立ち所に病人が助かったと云う様なおかげ話がいくらも残っております。ですからその念力とね、私は今日言う信心とは違うと思うんです。
念力も私は頂く事は有難いですよ、御祈念力を頂くと言う事はけども、御祈念力という念力というのには何かこう不自然なものを感じますねえ私は。今日私が申します様な、様なすんなりとした信心の頂き方、本当な事が判って、本当な事を行じて行くと云う事、例えば、死ぬると云う事でもです。死んだからとても天地の親神様のおかげを受けなければおられまいがと云う所が判った時です。そこはすんなりと受けられる訳です。是だけ信心するのにどうして死ぬのじゃろうかと云う事はない。
けれども私は、あのう昨夜から感じさせて頂いた事でしたけれども、念力と云う物はやはり大事なんだけれども、その念力と云う物はどういう時に鍛われるだろうかと私は思うた。是はね、一つの事を一心発起したらね、それをやり遂げると云う事です。そういう信心から念力が生まれる。例えばそういう、私共経済の不如意な時代であってもです。御本部参拝だけはもう、親先生の御供でしたからその当時、もう是は絶対のものとして私はお参りさせて頂きました貫いたんです。
その貫いた所に私は貫く信心そこからね、念力と云う物は生まれて来るんだと云う事を、昨日から思わして頂いております。だから念力も大事です。けれども今日ここで私が皆さんに強調しておる事はその念力じゃない。ただもう一生懸命参ったから拝んだからじゃない。是はまあだ一心の信心が足りぬからじゃと言うてです、信心して行けばそこからおかげが受けられるというのは、今まで一遍参りよったとを二遍参ると言った様な事ではないと言う事なんです。
今日私が皆さんに聞いて頂きたいのは、是はまだ足りん。よし今度は一っちょ水も掛った事がなかったけん、水掛ってからでも一つお願いしようと来る。はあ是はまあだ皆断食やらしとるなさるばってん自分は断食した事もない。一つ今度は断食をしてみて一心に縋ろう。それが違うじゃないですよ。けれどもそう言う事ではないというのです。是はまあだ信心が足りんというのはです、言うならば改まりが足りなかった。研く事が足りなかった。本当な信心を追求する意欲が足りなかったと言う事なんです。
水かぶったから断食したからというて、それが本当の信心じゃないのですから、真の信心に対する所の意欲と云う物が、焦点が違っておったと言う所を判らして頂かなければならないと言うのです。そこん所を私は一心に信心して行けばと云う事になる。本当に今から考えて見るとです、そういうなら私が本当におかげを頂きたいおかげを頂きたいでお参りしよった。例えば、なら病気が治りたい。どうぞ病気を治して下さいばっかりお願いしよった。是ではやっぱ死んだからと言うて。
うこうと信心が出来ていなかったと、そこから悟らなければいけない。治して下さいじゃない。その難儀なら難儀。病気なら病気、死ぬる程しの病気なら病気を通して、神様が私に何を判れと言うておるのであるかと云う所を焦点として、追求して行くと言った様な信心に、一心を打ち込んで行かなければいけんのです。此処ん所を是は信心が足りぬのだというて、そして拝むとば一時間拝みよったのば二時間拝むとか、一遍参っておったのば二遍参ると言った様な事じゃない。
今日皆さんに言っておる事はね、ならそれが嘘というのじゃないですよ。そういう信心もさして貰うとね、やっぱりそこからおかげが頂く事があり、頂く事は頂きますよね。けれども私はそうじゃなくてもっともっと信心をね、一つすっきりと頂いてもらいたい。為には言うなら、病人の願いであったけれども、その病人が段々ひどうなって亡くなった、という時点においてでもです、是はまあだ私の信心が足りなかったと、一段と今申しました様な信心に切り替えさしてもろうたり、打ち込んで参ります所から。
受けられるおかげというのはです、死ぬるのですからもう取り返しが付かんのです。けれどもあれを境にこういうおかげを頂いた。是は私が体験して来てとる通りです。次々と兄弟の言うならば葬式をしなければならない様な時であっても、死んだ者は帰るはずはない。けれども死んだからとてもおかげを受けなければならないという事実を踏んまえての、一心の信心がそこから出来て来た。今までの信心の生き方やら思い方じゃいけない。私はそう云う所を、私はおかげを頂いてきたんだと思う。
引き上げて帰って来るとに、もうそれこそ十年間働いて、言わば貯め上げたものを全部あちらに置いて来なければならなった。そん時にならどうしてこげな事になっただろうかとは一ちょう思ってないです。むしろ今までの信心は間違うとったと気付いたんです私は。今までの言うならば、おかげおかげと言うておったその信心は間違っておったんだと云う所からです、もう言うならばもうぎりぎりの所から出発したんです。
何にも持って帰られなかった。裸一貫同様で家族の者が引き上げて帰って来た。その時点で、今までの信心は間違うておったと気付かせて頂いて、本当の信心を解りたいと云う所に信心が切り替えられた。そこから私は食べる資格もない。着る資格もないと云う様な信心が出来て来た訳なんです。そして真の信心を願い求めながら、今日にやっぱ至っておるです。今日とてももう是で良いとは一つも思っておりません。
どうぞ一つその例えば雨が降るなら降る。風が吹くなら吹くその時点をね、私は大事にさせてもらう。なら一番極端な例で申しましたけれども、泥棒に盗られたとか例えばお願いしよったけれども死んだとか、と云う死んだという時点でお礼を申し上げる。是はまだ信心が足りぬのだと思わせて頂く。何故って死んだからとておかげを受けなければおられまいがなんですから。
だから死んだ者は取り返しが付かないけれどもです、そこからの一心の信心が先程申します様な意味での一心の信心ですよ、本当な信心に向かっての一心ですよ。に進ませて頂く所から、是はもう私は絶対太鼓判を押して言えれる事なんですけれどもね。例えばその亡くなった御霊なら御霊に対してです、もう本当にあの時には悲しい事だったけれども、「こういうおかげを頂いたよ」と、御霊にお礼が言える様なおかげになって来る事だけはもう絶対です。盗られたものは取り返しが付かんのです。
けれども盗られた時点でです、是はまだ信心が足りなかったと、一心に信心さして貰いよったら、盗られたものが返って来ると言った様な事じゃなくて、盗られた位の事ではない素晴らしい徳が力が受けられると言う事です。盗られた位の事じゃない。だから是はまあだ信心が足りなかったと言っても、参り方が足りなかった。拝み方が足りなっかったと言った様なね、私は信心はケチな信心だと思うですね。もう少しすんなりとすっきりと、信心を本当の意味で把握して行きたいと思います。
どうぞ。